なんとも不思議な国ペルー旅行記
〜「酸素がこんなに有り難いとは・・・」〜
快フィットネス研究所 所長 吉井 雅彦
平成18年12月26日(火)から平成19年1月5日(金)までの11日間、縁あって神秘の国ペルーに行ってきました。
ペルーと言えば「空中都市マチュピチュ」。今回の旅はそのマチュピチュを含め、首都リマ、インカ帝国の中心都市クスコ、汽船が航行する湖で最高地点に位置するティティカカ湖、神秘のナスカの地上絵を巡る旅でした。
成田を経ちロスアンゼルスを経由してペルーの首都リマへ。ロスまでが約9時間(帰りは11時間半)。ロスからリマまでが9時間。乗り継ぎ時間を入れるとおおよそまる一日がかり。よくよく世界地図を見てみたら、日本の裏側ブラジルのお隣。遠いわけです。
ロスでは例の9.11事件(僕の誕生日は9.12)以降、乗り継ぎ客もすべて一旦入国させるという処置をしているのでとっても面倒。手荷物検査も液体の持ち込みは制限され、靴まで脱いで行うという徹底ぶり。なんとも世知辛い世の中になりました。
首都リマに到着。南半球なのでペルーは夏。日本の6月程度とのことでした。時差は14時間。当然この時差ぼけにも多少悩まされました。ペルーには世界の気候の80%があるのだそうです。ちなみにアンデス山脈を越えブラジルと接するところはアマゾンのジャングルです。
リマは人口770万人の大都市。リマのある太平洋に面する海岸沿いは砂漠地帯でそこにアンデス山脈からの水が流れる川があるところを中心として都市ができているとのこと。この地域は年間を通してほとんど雨が降らないため傘というものを売っていないほど。リマの街には多くの緑、花が見られますがこれは毎日水やりをして維持しているとのこと。また驚くべきは街中にほとんどゴミが落ちていない、とてもきれいな街なのです。御存知のようにペルーはスペインが支配していたので街並みもやはりスペイン風。スペインはペルーを支配するに当たっての大義名分がキリスト教の布教にあったため各地に立派な教会が建てられています。リマの中心にあるアリマス広場ではちょうど正午の衛兵の交代式がありました。青と赤の派手な軍服の衛兵たちが大きく脚を上げながら行進しますが、なんともばらばら。ここいらなんとも南米式か?
リマに1泊後、インカの中心都市クスコへ飛行機で移動。ここからが酸素との闘いの旅の始まりです。クスコは標高3,400mに位置します。御存知富士山が3,776m。標高2,000m特に2,500mを越えると高山病が発症しやすいと言われています。なるほどなんとなく息苦しい。心拍数がすぐに上がる感じ。後から聞いた話では体内に酸素が残っているために平地から上がってきても3〜4時間は大丈夫とのこと。
翌日のマチュピチュ見学のためにクスコからバスに乗って宿泊地のウルバンバへ移動。ここが標高2,800mでクスコよりは下の方。ちなみにマチュピチュは2,400mでさらに下。
途中ピサック市場にトイレ休憩含めて立ち寄る。土産物以外に生活に必要な品々を売っている市場です。肉、魚、野菜などなど。ペルーでの主食は、とうもろこし、ジャガイモだそうです。
ここでペルーのトイレ事情を御報告。トイレは基本的に洋式トイレ。観光客が集まるところでは比較的きれいな有料トイレが設置されています。びっくりするのは、下水処理の関係で環境保全のためにトイレットペーパーをそのまま流さずに横わらにあるゴミ箱に入れること(全部ではありませんが)。小便ならまだいいが、大を拭いた紙をゴミ箱に捨てて臭くないのかしら?と何箇所かのトイレでゴミ箱の中をのぞいてみましたところ、あまりべったりウ○チのついた紙は捨ててなかったようです。うっすら・・・はありましたが。あと困るのが、洋式トイレの便座がないことが多いこと。便座を持っていかれてしまうことが多く最初からつけていないこともあるそうな。便座を何に使うのでしょう?(風邪薬にはならないだろうし・・・?)男性の立小便はまったく問題ないが、座るときが問題。そのまま座れば尻がはまってしまう。尻をつけないようにすれば「もの」が出てこない。皆さん苦労していたようです。(これから行かれる方は中腰の姿勢でも出せる能力、脚力をつける必要あり。)
2,800mでの宿泊。なんとなく身体の様子がいつもと異なるもののさほど気にならず。翌朝、周囲にポコ、ポコとそびえる山々に囲まれながら太極拳をやる余裕あり。おっともちろん部屋の中ではほとんど毎日ヨーガも。
宿泊地から今回のたびのひとつのハイライト、空中都市マチュピチュへ。マチュピチュへは列車で1時間半程度。今回は「ハイラム・ビンガム号」というあのオリエンタルエクスプレスを思い起こさせるような(乗ったことありませんが・・・)豪華客室の列車での優雅な旅でした。ハイラム・ビンガムとはマチュピチュを世界に紹介したアメリカの歴史学者の名前で、駅からマチュピチュまで上がる道路(約30分)もハイラム・ビンガム・ロードと呼ばれています。列車内では前菜から始まるリッチな食事が振る舞われます。また3両編成の最後部の客車にはラウンジがあり生演奏を聞きながらお酒、ソフトドリンクを飲むこともできます。
列車は、山間の聖なる谷を流れる川沿いにゆっくりと進んで行き(なんたって車より遅いのです)、マチュピチュ下方のアグアス・カリエンテス駅に到着。マイクロバスに乗り換えハイラム・ビンガム・ロードを駆け上がります。マチュピチュの入り口からしばしの上り階段。マチュピチュは2,400mですからさほど息苦しさはありません。上りきったところからさあ、あの写真やテレビでおなじみの空中都市マチュピチュの全貌が目の前に開けるのです。石でできた街並みの後方には守護神のようにそびえるワイナピチュ山。そのなんとも神秘的な眺望に接していると、「どうして自分がここにいるのだろう?」などと思えてしまうのです。
ちょうどこの旅が決まった頃に。テレビの「世界不思議発見」という番組でこのマチュピチュを取り上げていました。その番組によると、今まで何故この場所にこういう都市を建設したのかいろいろな説がある中で、現在一番有力なのが「交易の中心都市」であったのではないかという説なのだそうです。またここマチュピチュにある土はどこからか運んできたものとのこと。断崖絶壁に棚畑が作られその下には聖なる谷を流れるウルバンバ川が見下ろせます。なぜして、どうしてこんな場所にこれだけの街を作ったのでしょうか?やっぱり不思議です。
インカ帝国は距離にして5,000kmの広大なまた石組みの技術を始めとしてすばらしい文明を有する帝国だったそうですが、なんとその文明は文字を持っていなかったのだそうです(ひもを結んで情報を伝達する術はあったようですがそれも解読不能)。そこでなんの文献も残っていないため、すべて「・・・なのではないだろうか?」という仮説でしかないのが、このインカ文明の特徴とか。そこでインカ文明のことを「じゃないか文明」と呼んでいるとのこと。
マチュピチュの幻想的な世界から降りて、再度ハイラム・ビンガム号に乗りクスコへ。今度は上りです。2,000mから3,400mへ。途中めずらしいスイッチバック方式で進んでいきました。なんとなく頭が締め付けられるような感じ。お腹の中がすっきりしない膨満感。幾度となくおそう吐き気。脈もなんとなく上がり気味。などなど高山病の症状が忍び寄ります。クスコの町の夜景を見ながら宿舎へ。
翌日はクスコ市内および周辺の遺跡を見学。インカの文明ではマチュピチュでも見られるように、石の加工の技術が有名です。このクスコにはインカ時代神殿がいくつかありましたが、征服者のスペイン人はこれらの上屋を壊して、残した石の土台の上に新たにキリスト教会を建設しました。ところが何回かの大きな地震で後から建てた上の部分は壊れてもインカ時代の土台は微動だにせずそのまま残っているのだそうです。
この日は軽度の高山病の症状がありなんともすっきりせず。心拍数は安静時にも80拍を越え、人によっては100拍以上に。特に僕もこの日が一番つらい日でした。目まい、ほてりこそありませんでしたが、頭痛、嘔吐感、頻脈、膨満感などよく聞く不定愁訴の症状そのもの。訴えている人の気持ちが身をもってよーく理解できました。翌日は4,300mの峠を越えてチチカカ湖3,900mに向かいます。もっと酸素が薄くなる・・・ということはもっと体はきつくなる・・・と考えると不安が押し寄せます。どうなってしまうのか?
ティティカカ湖へはバスに乗り約6時間程度の旅。途中遺跡を見学しながら、4,335mのラ・ラヤ峠を越えて行きます。昨日から引きずっている「どうなってしまうのか不安」を抱えながらのバス旅でした。ところがあにはからんや峠に着いてみたら、確かに息苦しさはあるものの前日よりも楽!よかった、よかった。
ティティカカ湖は汽船が航行する湖としては世界最高地点とか。富士山よりも上にあるのですぞ。どおりで空が近いはず。その大きさはなんと琵琶湖の12倍。ただし今回宿泊したプーノの街は半島に囲まれていてその全貌は地図で推し量るのみ。さて今日は大晦日。翌朝元日にはティティカカ湖を望むホテルの部屋の窓から初日の出が拝める・・・はず。
日の出時刻前にセットした目覚ましに促されて窓に目を凝らすと・・・日の出が予想されるところに分厚い雲が!それでも雲の切れ目から光が漏れ出て、御来光の雰囲気はなんとか満喫。本年もいいことがありますように!
モーター船に乗ってティティカカ湖に浮かぶウロス島へ。このウロス島は文字通り浮いていたのです。・・・というのはその辺りに生息するトトラという葦の一種を積み重ねた「浮島」なのです。3mほどの厚みがありおおよその寿命が30年。流されないように杭で止めてあるとのこと。そのウロス島に上陸?確かに島が揺れている。地面?はふかふか。そこに同じトトラで作った小屋で現地の人が暮らしています。話によるとインカの昔からこうして住んでいるのだそうです。電気は基本的ないのですが、ソーラ発電パネルをつけている家ではテレビがありました。トトラで作った手漕ぎ舟に乗り近くの島へ。前で漕いでいた女性は17歳で子持ちとか。ここでは15歳くらいで結婚するのだそうです。寿命は50歳代程度で短いとのこと。
インカの人々は、我々と同じモンゴル系とか(尻が青いかどうか聞くのを忘れてしまった!)。そこに御存知スペイン人フランシスコ・ピサロがやってきて広大なインカ帝国はもろくもスペイン人の支配下になってしまいました。そこで、ペルーにはインカ族系とスペイン系の人が混ざり合っています。ペルーは貧富の差が激しいと聞きましたが、やはり富裕層はスペイン系の人のようです。インカ族系の人々はこのウロス島の人々同様昔ながらの農業、漁業を中心にした質素な生活を送っているようです。そこで子供も稼ぎ手として民芸品を売ったりしてしている様子があちらこちらで見られました。ただし皆さん太っております。すなわち食べるものはちゃんと食べているということでしょうなあ。全般的にペルーの女性の下腹は出ておりました。スペイン系のきりっとした美形女性。胸はどーんまではいいのですがその下がまたまたどーん!確かに毎回の食事の量が多いのです。僕でさえ毎回3分の1は残しました。下腹が気になるあなた!ペルーに住めば気にならない・・・ですぞ。
さてウロス島見学が終わり、空港のある近くのフリアカから飛行機でリマへ!飛行機に乗りしばらくすると体がなんとなく楽に。そうです。酸素が回ってきたのです。その後リマについて嘘のようにあの高山病の症状がなくなりました。酸素は何と有り難いものか痛感したこの数日でした。やはり僕は「薄い」と言う言葉は嫌いです。
最後のスポットはナスカの地上絵。リマから小型機でイカの街へ。そこで今度はセスナに乗り換えてナスカの地上絵を空から見学。この絵が描かれている平原の土地は熱を吸収する特性がある場所なんだそうです。これらの不思議な絵を、何故この場所に、誰がどのようにして、何のために描いたのか未だ謎の謎。なんたって「じゃないか文明」ですから。
セスナに乗り込み砂漠を眼下に望みながら地上絵の地点に。左右の座席に座っている人のためにセスナはひとつの絵の上空を8の字に旋回して見せてくれます。機体を相当傾かせて「右、サル、羽根の下!」などとたどたどしい日本語で指示してくれます。左に傾いたら次は右。これを主要な絵10箇所程度繰り返し。そのまれに見る風景(地上絵)に酔いしれると共にこみ上げてくる吐き気。き、き、気持ちわるーい!完全乗り物酔い状態。約20分の遊覧飛行を終えてセスナから降りれば足はふらふら。ジェットコースターに乗った後みたい。添乗員の「もう一度乗って見たい人?」の問いかけに誰一人手を上げず。
この小さな空港に飼育されている子供のコンドルがいました。飛べないそうです。飼育係が外に出してのどの辺りを押さえると子供とはいえ大きな翼を広げます。その格好のまま皆が記念撮影。もちろんえさ代として有料。コンドルはインカの空の世界を支配する象徴なのです。マチュピチュでも10年に一度くらいでコンドルの飛ぶ姿を見ることができるそうです。そのコンドルに「次回はいつ来るんだ?」と聞くと「コンドくル!」と言ったとか・・・。
ナスカの地上絵は確実に線が細くなってきているのだそうです。この地上絵だけでなく、イカの町にあった砂漠の中のいわゆるオアシスが48箇所ほどあったものが現在ではあと1箇所のみに。それも年々水位が下がってきておりいつまで持つか。その他の遺跡でも保存のための費用がないために次第に失われつつあるものも少なくないとか。
ナスカの地上絵のお土産屋さんにはもちろん地上絵の図柄の入ったグッズがたくさん。僕が隣の人に「これハチドリでしたかね?」と聞くと「いいや1ドルですよ!」。???。よく見ると値札には「$1」と書かれていました。
こうしてペルーの旅は終わりを迎えました。やはり地球は広い!を体験。酸素がなんと有り難いものなのかを実感した旅でもありました。「じゃないか文明」のインカの不思議を肌で感じつつ、広大で高度な文明を有していたインカ帝国がわずか200名程度のスペイン人にあっという間に、もろくも滅ぼされてしまった事実をなんとも歯がゆく残念な気持ちになるのは僕だけではないように思います。争いを好まず、ほとんど武器らしいものを持たず(スペイン人の銃に対してこちらは石投げ)、究極は、夜戦う習慣がなかったためにあっけなくやられてしまった、などなどを聞くと、そのほのぼのさにあきれると共にその文明が残っていたら現在はどうなっていただろうかと思いを馳せずにはいられません。
この貴重な体験と酸素のようにいつも何気なくあり我々の命を支えてくれている「もの」に感謝しつつ、旅の報告を終わりたいと思います。
合掌